老人とメディア雑考

(日本VR学会誌2014年9月)http://journal.vrsj.org/19-3/s33-34.pdf

老人にとってメディアとは
いまメディアは若い人たち中心に発展している。老人はメディアに弱いと言われている。本当にそうなのだろうか。メディアに対するリテラシーは、幼いときにどのようなメディアに接していたかによって決まる。もしかしたら近い将来、次のように言われる時代が来るかもしれない。
「ウチのおじいちゃんとおばあちゃんはしょうがないのよ。毎日部屋に籠って、ネットばかりやっているの。それもお年寄り向けだけに辛うじて生き残っているLINEとか言うメディアを使って。外に出て人に会って遊んだ方がずっと楽しいのに。でもあの世代は若い時にそうだったから仕方がないのね。可哀想な世代なのよね。」
そうなのだ。メディアはもともと老人向きなのだ。いま、老人がメディアに弱いことを心配して、極端に機能を減らした○○フォンとか言うメディアもあるけれども、心配することはない。じきにメディア中毒の老人ばかりになる。問題は、それまでの過渡期をどうするかだけなのだ。

明るい寝たきり生活
いつどこでだったか忘れてしまったけれども、VR学会の元会長の廣瀬通孝先生から、「明るい寝たきり生活」という標語を教えてもらったことがある。僕は感動して、あるところでこれを紹介したら、若い学生から、「僕も下宿に籠って、毎日これを実行していました」という反応があった。
もちろん意味が違う。老後を殺風景な病室の壁と天井だけを眺めて過ごすのではなくて、自由自在に世界の観光地巡りができれば嬉しい。もともとたっぷり時間があるのだから、それこそ優雅な人生となる。早くそのような身分になりたいとも思う。
そのときにバーチャルリアリティは本来の役割を果たすだろう。バーチャルは仮想ではないとよく言われるけれども、もちろん妄想でもない。仮想と現実の区別がなくなった老人の妄想に訴えるメディアではない。
むしろ、足腰が弱くなった老人に、あたかもそこを訪問したかのような体験を与える。メディアは手足なのだ。実際に訪れることが難しい遠方の地にも、メディアを通じてならば、実質的に現実と同じリアリティで訪問できる。まさにバーチャルリアリティである。

物忘れとメディア
物忘れにも、メディアはいい。自分の体験をライフログとしてきちんと記録しておけば、亡くし物をしても困らない。そのログを参照して、亡くし物を最後に見たのはどこかをプレイバックすれば、亡くし物をすぐ見つけることができる。
老人は、パーティなどで人に会った時、名前がすぐ出てこない。でも心配することはない。スマホのカメラを相手に向ければ、相手が誰であるか、過去にどこで会った人であるかなどを、瞬時にして教えてくれる。相手の名前を忘れて失礼することがなくなる。そのような時代がすぐそこに来ている。
ただ、忘れないようにして欲しい。老人にとって忘却は命なのだ。老人力という言葉があるけれども、忘却こそ老人力である。忘却という老人力があるから、老人は心安らかに生きている。
老人は嫌なことは忘れて、いいことだけを覚えている。だから幸せに生きることができる。長い人生で経験した嫌なことをすべて覚えていたら、あるいはそれをすべて記録したメディアがあって、それを見せつけられたら、老人は発狂するか、懺悔だけの人生になる。もはや、とても生きていけない。

病室でのメディア
話が少し別の方向に行ってしまったので、ここでメディアについての個人的な経験を述べることをお許しいただきたい。
2年半ばかり前に、脳幹の血管が詰まる病気をしたことがあった。まだ完全には回復していないけれども、言語機能が一時的に失われた。そのときは手先の機能もおかしくなった。箸も持てなかった。小さな字も書けなかった。
一方で、驚くことにキーボードだけは何の不自由もなく打てた。もともとブラインドタッチではなかったことが幸いしたのかもしれない。病室から講演のなどの予定をキャンセルするメールを自ら打ちまくった。
病名も告げてキャンセルのお詫びをしたので、受け取った人はびっくりしただろう。でも、キーボードを打ちまくったことが、結果として少なくとも指のリハビリに大いに役立った。
まさにメディアのおかげである。言葉は不自由なのに、病室にいながら自由に病院の外とコミュニケーションできた。多くの方から励ましのメールをいただいた。それが僕にとっては最も効いた薬だった。コミュニケーションは、まさに百薬の長であった。

もしかしたらそのうちに
コミュニケーションということでは、いまのうちに何とか準備をしておかなければと思うことがある。それは僕が、外見上は植物人間に近いとみなされる状態になったときに、どのようにしてコミュニケーションをとるかである。
病人に声をかけても何の反応がないとき、その病人は意識そのものがないとみなされる。でも、もしかしたら声は聞こえているかもしれない。その意味も理解しているかもしれない。でもそれに応答することができない。実際にはそのような病人が多いのではないかと思う。そのようなときに、枕元で葬式や遺産相続の話を勝手にされたら、たまったものではない。
情報を発信する機能が完全に失われた場合は、脳に電極を差し込んで、そこから情報を直接取り出してコミュニケーションする技術の開発が必要になるだろう。僕には間に合わないかもしれないけれども、早急な研究開発を期待したい。
そこまでいかなくても、ほんの少しだけでも機能が残っているときは、それを積極的に活用する技術がすぐにでもほしい。たとえば瞼で瞬きだけができれば、それはまさに電信と同じようなメディアとなるだろう。眼球運動の機能も残っていれば、もっと高度なコミュニケーションができる。
これを実現するためには、コミュニケーションのプロトコルをあらかじめ決めて、元気なうちに訓練しておく必要がある。そのうちにでは間に合わない。今日にでも始めたい。そのために、まずは何をすればいいのだろうか。

まだ遅くはない
だんだんと深刻になってしまった。老人とメディアの関係について気軽に書き始めたら、実はそれが自分自身の問題であることを思い知る結果となってしまった。コミュニケーションの技術者としていままで何をやってきたのだろうとの思いもあるけれども、まだ遅くはない。そう信じたい。

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