話すということ 2019.02.03-02.09

「話せばわかる」。これは5.15事件のときに犬養首相が叫んだとされる言葉である。本当に話せばわかったのだろうか。そもそも話すことは可能だったのだろうか。話すということは一体どのような人の行為なのだろうか。

話せば話すほど結論がおかしくなることがある。人間関係が悪くなることもある。そこには悪魔が潜んでいるようだ。なぜなのだろう。話すことに頼ろうとする人の行為そのものに問題があるのだろうか。あるいはそこで使われている言語というメディアに限界があるのだろうか。

ネットで顔を見せずに話すときは気をつけたほうがよい。相手の気持ちを読まずに話すようになる。名前も名乗らずに文字だけで話すときはもっと気をつけよう。無責任になる。匿顔と匿名は、ときとして話す人の人格を変えてしまう。ジキルがハイドになってしまう。

話すには、それだけの時間を相手と共有する必要がある。問題はそれを相手が許してくれるかどうかだ。話すのは簡単なようでそうでない。話すという営みは、相手との共同作業だからだ。話すためにはまずは聞くことから始める。それが大切だ。

話すには、自分の考えをそれなりに持っている必要がある。一方で、話しながら自分の考えが明確になってくることもある。自分ひとりで考えて結論がでないときは、悩んでいないで、まずは人に話してしまうとよい。話して結論がでなくても、悩んでいることがばからしくなることもある。

或ることがわかるとは何なのだろうか。僕は本を読んでもわからない。そのことを人に話すことができたときに、始めてわかった気になる。たとえば講演で、話しながら自分の言葉になっていないと気づくことがある。それは話している内容が、まだ自分でわかっていない証拠なのだ。

他人相手に話している時間と自分に話している時間。比べてみると、圧倒的に自分と話す時間が長い。単なる独り言ではない。何かを考えているときも、自分と対話している。もしかしたら話し上手な人は、自分とも上手に話しているのかもしれない。話すということは、まさに生きているということなのだ。

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