桜がほとんど散ってしまった。満開の桜は見事だけれども、散り際がよいとする人もいる。今年は開花してから寒い日が続いた。花冷えに耐える桜は、いじらしかった。痛々しいという人もあった。日本人は、なぜか美しい花に哀れさを感じて同情する。そして無常感に浸る。
「色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ・・・」いろは歌は子どもの頃から諳(そら)んじていたけれども、それが無常を謳ったものであることは大人になって知った。香りよく色美しい花もすぐに散る。この世も同じように無常だ。そうなのだ。年に一度、桜はそのことを教えてくれるのだ。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」、平家物語も方丈記も、移り行くものの儚さを語るところから始まる。日本人は鐘の音を聞いても、河の流れを眺めても無常を感じる。すぐに散る桜にそれを感じてもおかしくない。
「一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」人生は一切が思うがままにならない。すべては変転して、しかも縁起で結ばれ独立しては存在しない。そのことを悟ることによって煩悩が消えて清らかになる。仏教はそう教えるけれども、凡人はなかなかその境地になれない。だから桜を眺めるのだろう。
「有為転変、万物流転、飛花落葉、栄枯盛衰、夢幻泡影、生々流転 春の夜の夢のごとし、朝に紅顔ありて夕べに白骨となる・・・」日本人は、移ろいゆくものが好きだ。無常観は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の一つとされる。なぜなのだろう。日本の風土がそうさせたのであろうか。
「花より団子」日本人はいつも花をみて無常感に浸っているわけではない。食欲はそれに優先する。桜のもとで、無礼講で大騒ぎをするのも日本人だ。長い冬が終わって、ようやく花が咲いたのだから、陽気に騒がなければ損だ。その気持ちもわかるような気がする。
人は煩悩のかたまりだ。そこから解脱するために、すべてが無常であることを悟る。もともとはそれが無常の意味なのだけれども、日本人は無常であることも美に昇華してしまう。そしてその美を愛でる。ときには大騒ぎして煩悩を発散する。日本人はしたたかだとつくづく思う。