一握の砂から 2010.09.19-09.25

iPadで、青春時代に愛読した石川啄木の「一握の砂」を感動しながら読む。「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ・・・」、「君に似し姿を街に見るときの・・・」。今もまったく変わっていない自分に驚く。成長していないのか、それとも逆に歳がそうさせたのか?

ツイッターは140文字に制限されている。それがこれを特徴づけている。思い切って、57577の31文字としたらどうか。そうすれば、ツイッターは万葉集になる。自然や四季を愛でてもいい。男女の恋を詠みあってもいい。そこから文化が生まれる。

メディアは、それに制約を加えることによって文化となる。バーチャルの目標はリアルではない。リアルを超えなければ意味がない。バーチャルにすることによって想像力が高まる。そして創造が生まれる。

短歌の本質の一つは様式である。様式は決して単なる形式ではない。様式はメディアを文化にするための装置である。そして様式そのものが美となりうる。美しい様式は歴史に受け継がれ、伝統となる。

いま、さまざまなサブカルチャーが日本で生まれている。アキバ系がある。メディア芸術もそうかもしれない。それらは文化となるために、これからどのような様式を獲得していくのであろうか。それとももともと様式とは無関係であることにその本質があるのか。

「成り上がりの文化」は、無条件で人をわくわくさせる。サブカルチャーも、一種の成り上がりかもしれない。歌舞伎も最初は成り上がりだった。浮世絵も西欧で認められるまではサブカルチャーだった。それがいま日本を代表する「伝統文化」となっている。

成り上がりも、装飾を徹底的に削り取っていくことによって、その本質が浮き彫りになり、文化となる。秀吉の黄金の茶室を削り取ることにより利休の茶室が生まれた。僕を削り取ったら何が残るのだろう。何も残らずゼロとなる。それもありかもしれない。

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