たけや~ 2010.09.26-10.02

日曜日、「たけや~、さおだけ~」が近所を通る。これは肉声だと風物詩なのに、拡声器(スピーカ)で聞くと騒音となる。単なる音量ではなさそうだ。本人の声ならまだいい。別人の録音(それも最近は女声が多い)だともっと腹立たしくなる。なぜなのだろうか。

サッカー中継を録画で観ると、たとえその試合の結果を知っていなくても、なぜかあまり興奮しない。リアルタイムで観るのとどこが違うのであろうか。

かなり前のことであるが、ある気功師の方からこういう話を聞いた。「テレビにでている人からも気を感ずることもある。でもそれが録画だと感じない」。信ずる信じないは別として、僕には面白かった。

かつて顔のコンピュータ処理の研究を始めたとき、ある文系の方から、「顔を1と0の系列で表現した段階で、それは顔ではなくなる。コンピュータで顔がわかるはずがない」と言われたことがある。いま、すこしわかるような気がする。

いま北海道の十勝。朝早く起きて、滅多にしない散歩して、草原で深呼吸。明らかに東京とは空気が違う。それ以上に気分が違う。自分も違う。

僕は、「いま」という時間に、「ここ」という場所で生きている。僕の隣には「きみ」がいて、その隣には僕がいる。同じ自然の「くうき」を吸っている。この当たり前のことを、もう一度当たり前のこととして考え直してみたい。

メディアは人と人の関係を拡張する。みかけの距離を縮めることができる。時間を操作することもできる。けれども、メディアを媒介することによって失われる何かがある。メディア技術の研究者として、それが気になる。