前に「バーチャルはリアルを超えなければ意味がない」と書いた。人はもともと、リアルだけでなくバーチャルな世界を生きてきたのかもしれない。それによって生老病死に向き合ってきたのかもしれない。
かつて平安末期から鎌倉時代にかけて、「地獄草紙」に代表される地獄絵が描かれた。それは死後のバーチャルな世界の表現である。いまバーチャルリアリティ技術が発展しても、誰も地獄の世界を表現しようとしない。現代において、もはや死は恐怖でなくなったのか。
VR学会誌の巻頭言にこのようなことを書いたことがある。「僕の研究は、顔とVR。僕の葬式のときには、顔技術とVR技術を活用してリアルな僕を再現し、参列者一人一人と握手をしたい。地獄への旅路に一緒に行こうと誘ってみたい。地獄に行ったら・・・(後略)」
バーチャルの魅力は、リアル(現実)に縛られずに自由に発想できることだ。それはリアルからの飛躍でもいい。逃避でもいい。アーティストも含めて人はみな、そこで自分自身の想像力と創造力が試される。
ネットも含めてバーチャルは、もともと老人向きなのかもしれない。数十年後には、もっぱら老人がネットのオンラインゲームに熱中し、若者は見向きもしない。そういう時代が来そうな気もする。
「明るい寝たきり生活」。これは@_anohitoから聞いた標語だけれども、僕はこれが気にいっている。寝たきり生活が待ち遠しくなる、そのようなメディア技術が望まれる。少なくとも僕が寝たきり生活になるまでに実現してほしい。
パラグライダーで上毛高原の空を飛ぶ。これは夢か現か?もともとこの世は夢なのかもしれない。いま生きている世界が夢でないことは、誰にも証明できない。僕の人生はそれでも何らさしつかえない。だんだんそう思えるようになった。