科学 2010.10.24-10.30

似非科学がときどき話題になる。なぜ、似非科学が生まれるのか。科学を装えば、それだけで社会が信用するからだろうか。それとも科学が、人が関心を持つ疑問にきちんと答えていないからなのだろうか。

「科学的に実証できないことを、いかにも実証できているように言う」ことは科学者として許されない。しかしこれを拡大解釈して「科学的な実証が難しいことに関心を持っても、それは論文にならないから無駄だ」と考えたら、科学者は自分の首を絞めることになる。

科学、特に自然科学が教えていることは、絶対の真理である。疑ってはならない。例えば、相対性理論や量子力学を完全否定する学説を発表したら、学問の世界から破門される。その意味では科学は「絶対なる神」である。その神の教えに基づいて近代がある。

科学は真理を知りたいという人間の欲望であり、止めることはできない。科学の人類への貢献も計り知れない。それを前提に言う。絶対なる神となって謙虚さを失った科学は悪魔を生む。原爆しかり。それは、科学は正しく技術が悪いのではなく、科学そのものが内包している宿命なのだ。

「20世紀は物質科学によって地球を喰い潰した時代であった」。もし未来の歴史書に「21世紀は生命科学によって人間を喰い潰した時代であった」と記されるようなことになれば、科学は人類の信用を失う。そうならない保証は今のところない。

自然科学は、正しい真理は唯一であることを大前提とする。しかしすべてがそうではない。例えば文化はそうでない。自分たちの文化だけが正しい真理であると信ずることによって独り善がりが始まる。国家レベル、民族レベルでそうなると戦争になる。

近代になって、科学的な知は地動説になったが、人の意識や考え方は逆に自己中心の天動説になった。いま人類は、自分自身を相対化することが求められている。近代において絶対なる神となった科学も例外ではない。