「僕の嫌いな言葉、それは競争と評価」、昨年春の大学の最終講義でこう明言した。それには、色々な意味があるけれども、一つには最近の学術研究のしくみに疑問を持つようになった、それがある。
「競争と評価」。それは、もともとは経済社会の論理ではなかったのか。それが、いま当たり前のように学術研究の場で謳われている。これは、学術研究そのものが経済行為になったということなのか?
いま、大学も含めて基礎研究機関は、研究受託企業になったように見える。国から「研究」を受託して、臨時雇用の社員を集めてそれを推進し、成果報告書を「製品」として国に納入する。それによって研究受託企業の企業活動がなりたっている。
経済行為となった学術研究は、そのアウトプットを上から下へ厳しく要求する。国は大学に、大学は部局に、部局は専攻に、専攻は教授を始めとする教員に、教員は学生も含めた研究室の若手メンバーに・・・。その際の謳い文句として「競争と評価」がある。
経済は大切である。社会はそれで動いている。でも、その経済の論理を学術研究の場に生の形でそのまま持ち込むと、学術研究は自壊する。それがいま、国の主導で行われ、翻弄されている。どこかおかしくなっているのではないか。それを感じている研究者は多い。
学術研究において一番大切なことは、若手研究者が未来へ向けて夢を持てる研究環境の構築である。それはシニアの年代の研究者の責任である。一方で、若手研究者はどのような環境にあっても夢を忘れてはいけない。忘れたら、それは研究者としての敗北を意味する。
経済行為としての学術研究は近視眼的になる。これを、将来を見据えた知の活動として再生するにはどうすればいいのか。他力本願の責任転嫁だけでは何も解決しない。一人一人が問題の本質を探り、それを結集して自力本願で解決していく以外にない。