テレビの大河ドラマで、英雄が一生を終えるときはみな注目する。一方で、同じドラマでは、数多くの下級武士、そして名もなき庶民が死ぬ。それぞれにも親がある。妻子もいる。でも、そこでいくら人が死んでも、僕も含めて誰も気にしない。
かなり前、アジアのある都市で、超高層ホテルの窓から下の街を遠く見下ろしたとき、街を歩く人たちがみなアリのように見えた。ホテルから外に出てみた。そこにいる人たちは、みな普通の人間だった。先ほど見たアリは一体何だったのか?
僕は日本人としては一億分の一、世界からみれば百億分の一。たったそれだけでしかないけれど、僕からみれば自分は無限大の存在。日本よりも世界よりも大きい。時代劇の戦争で死ぬ下級武士や農民も、超高層ホテルから見えた「アリ」たちも、みな一人一人が無限大なのだ。
人類という種が大切なのか。民族が大切なのか。国が大切なのか。社会が大切なのか。家や共同体が大切なのか。それとも個人が大切なのか。正直言って正解はない。だからこそ、歴史はそれぞれの時代において模索を繰り返してきた。あるときは過ちを犯してきた。
僕は、これまで日本や世界を相手に仕事や研究をしてきた。それが当然だった。仕事が定年になっても、元気なうちはそれを続けろと人は要求する。でも、毎日の出会いの中で、身近にいる一人一人のために時間を使うこと。それもまた大切なのではないか。いまそう思い始めている。
国や経済界さらには学会も含めて公の場では、専らグローバル化が叫ばれる。一方で僕には、ローカルこそこれからの時代のキーワードのように思える。例えばメディアの時代だからこそ、一人一人の顔が見える血の通った地域社会を新たに構築すること。その重要さにもっと関心が集まってもいい。
人をアリとして見るのではなく、自分の隣りにいる顔が見える人たちを大切にして、またその隣りの人たちを大切にして・・・、そのために何をすべきか考えることが、全体にもつながっていく。幼稚だと笑われるかもしれないけれど、僕はその視点を忘れずにいたい。