出る杭は打たれる。出すぎた杭は打たれない。これは松下幸之助、そして僕が尊敬する研究者の名言である。そこにはそれぞれ、これを言えるだけの生き方がある。メッセージがある。
出る杭は打たれる。打たれることに感謝する。打たれることによって、その杭は強くなる。杭は本物になる。打って鍛えてもらうために、まずは出る杭になって、打たれることを目指す。
出る杭は打たれる。近くにある出る杭は打ちたくなる。ある杭が上へ出るとそばの似た杭は相対的に低く見える。自分が低く見られるのは嫌だし、また自分の上に出られるのは鬱陶しいから、出る杭を打ちたくなる。
出る杭は打たれる。遠くにある杭は打たれない。出ていてもあまり気にならない。頼もしく見えることもある。近くにあっても、自分と違う杭ならば気にならない。むしろそれによって他から注目されて、そのそばにいるだけで誇りに思うこともある。
出る杭は打たれる。閉じた競争社会では互いに打ち合う。みなが内側を向いているからだ。一人一人が外へ向かって自分の杭を伸ばし、それを誇りに思っていれば、他の出る杭を打とうという気にならない。
出る杭は打たれる。荒野の杭は打たれない。僕はそこに新しい杭を立てることに関心を持ってきた。荒野に一本だけだから、出過ぎることはない。打たれることもない。そのまま何の役にも立たず、朽ちてしまうことはあるけれども。
出る杭は打たれる。あるいは打ちたくなる。それは社会の、そして僕も含めた人間の性(さが)なのだろう。だとすれば、それと上手につきあっていくことが大切である。どうつきあうかは、これからそれぞれがどう生きたいのか、それと密接に関係している。