障碍者と文化 2011.01.09-01.15

バリアフリーという言葉がある。障碍がある人たちが自由に活動できるように社会的な障碍をなくすこと、いわば障碍者のマイナスをゼロにすることだ。それは大切なことだけれども、個人的にはマイナスを反転させてプラスにできないかとも思う。

障碍がある人には優れた感性がある。その感性はそれぞれの能力であり、個性でもある。これを最大限に活かして、障碍者しか享受できない文化として花開かせること。それができれば素晴らしい。そうすれば障碍というマイナスはプラスに転じる。

情報メディアは、制限を加えることにより文化となる。俳句や短歌は好例である。目や耳などの感覚的なメディアの障碍も同じかもしれない。制限されていることによって、そこに新たな素晴らしい文化が生まれる可能性がある。

以前「明るい寝たきり生活」という考え方を紹介した。要介護状態になってからの寝たきり生活は、誰でもが将来経験するかもしれない障碍である。この生活を明るくするための文化が発達すれば、そこは寝たきりになった人しか体験できない楽園となる。

障碍の多くは、たまたま社会的なしくみがそうさせているだけで、人間本来の能力が劣っているわけではない。異なるしくみの社会では、それはもはや障碍ではなくなる。むしろ優れた誇るべき個性になるかもしれない。

情報技術の研究者として思う。情報技術は、これまで最大公約数的な均質な情報環境の提供を目指してきた。それは発展途上期には重要だった。これからは、少数者をも対象として幅広い文化を花開かせる技術が望まれる。情報技術もそろそろ大人になっていい。

障碍についてつぶやくことには勇気がいる。多くの障碍者は、それをマイナスとして悩んでいるからだ。でもあえて思う。マイナスとしての障碍を克服して、むしろそれもプラスになって、いわゆる障碍がある人もない人も、ともにこれからの文化の担い手として歩めることを。