時間 2011.01.16-01.22

人の感覚において、空間の感覚と時間の感覚の積は常に一定であるように思える。航空機と電波によって世界は一つになり、さらにインターネットの時代になって、現代人の空間の感覚は拡大した。一方で時間の感覚は狭くなって、いまという瞬時しか生きられなくなった。

現在という時間は、過去と未来の架け橋のはずなのに、現代を生きるわれわれはその感覚を失ってしまった。昨日は遠い過去、明日は信じられない未来になってしまった。その結果、今日を勝ち抜くことだけが関心事となって、未来を忘れて過去からの蓄積を消費するだけの時代になってしまった。

現代人は、効率だけを重視して、時間を罪悪視するようになった。例えば、近代はスピード(速度)に価値を見いだしたが、速度では距離が分子、時間は分母にある。この分母の時間を不要として、これをできるだけ小さくすることが、時代の進歩であった。

「どこでもドア」は、人の移動の理想とされるが本当にそうか。「どこでもドア」で旅をして楽しいだろうか。旅においては時間が本質であり、その時間を楽しむことが旅の本質なのではないか。人生も同じかもしれない。人生という旅を、現代人は楽しんでいるだろうか。

時間の感覚の喪失は、文化の喪失を意味する。文化は、過去から現在そして未来へのコミュニケーションであり、その時間の感覚が文化を生む。グローバル化によって、空間の感覚だけが均質に拡大したところには、文化は育たない。

地球環境問題も、現代人における時間感覚の喪失によるものかもしれない。今という時間しか意識できなくなった現代人は、それこそ今の競争に勝つためだけに、過去から受け継いできた資源という遺産を喰いつぶして、未来に対しては汚染という負の遺産を残そうとしている。

時間の感覚を取り戻すために大切なことは、自分が今おかれた状況と時間を絶対視せずに相対化することだ。少しだけ立ち止まって、ゆっくり悠久の歴史書を読んでみるのもいい。