障碍と福祉 2011.02.06-02.12

障碍について、そうでない人がつぶやくことは、結局は障碍のある人たちを傷つけてしまうのではないか。そう悩みつつあえてつぶやく。逃げないことが、少なくとも自分にとって大切なことだからだ。

福祉は行政だけがおこなうものではない。一方で、福祉は慈善ではない。それを無視して社会の自己満足として福祉を位置づけると、逆に福祉を受ける人たちを縛ることになる。負担を強いることになる。

障碍者への福祉は、それを必要とする人たちのすべてをサポートするものだ。例えば障碍者には様々な欲望がある、必ずしも道徳的ではないかもしれない。それもサポートしなければ本当の福祉とは言えない。障碍者だけに道徳的な生活を強いることはできない。

「エロバリ」という運動があることをある方から教えていただいた。「エロティックバリアフリー」。障碍者は清く正しい映画だけでなくピンクな映画ももちろん見たい。それをサポートする。当たり前のことだけれども、これも含めて福祉であることを忘れないようにしたい。

障碍の問題は技術にも見直しを求める。例えばメディア技術は、五感を駆使した臨場感を目標としてきた。人にはもともと五感があるからだ。しかしそれは、五感の一部に障碍がある人にとっては逆に使いにくいものになる。見かけ上の臨場感を超えた真のメディア技術が必要になる。

障碍者への社会的なサポートは、感覚や身体の障碍に対してはある程度可能である。一方で、あざや傷など、顔に障碍がある人へのサポートはむずかしい。最低限すべきこととして、このような訴えを聞いたことがある。「同情されることが一番辛い。同じ普通の人間として扱ってほしい」。

障碍のある人を見慣れていないと、どうしても奇異な目で見てしまう。あるいは同情してしまう。それが障碍者を傷つける。街で見かけることが当たり前になること、そうなるように障碍者にとってのバリアをなくすこと、それがまずは大切なのだろう。