ロボットと人間 2011.02.27-03.05

コンピュータが将棋のプロに勝ち、クイズでも勝った。かつてコンピュータは計算だけで考えることやひらめくことができない、そこに人の尊厳があるといわれた。いまコンピュータはそれもできる。人が人であることの拠り所は少しずつ狭まっていく。

機械(ロボット)と人の競い合いはこれからも続く。世界的なミスコンテストでグランプリを獲得した女性が、実はロボットであったことが発覚したら、社会はどう騒ぐだろうか?さらには、ノーベル賞受賞者が実はロボットだったことが発覚したらどうなるか?

教育機関の役割が産業界に人材を送り込むことだとすれば、ロボットの方が有能かもしれない。そのとき大学の役割はどうなるのか?将来、大学入試の応募資格に「ロボットではなく、人であること」と記されることがあるのか。あるとすれば、それはロボットに対する差別にならないのか?

もし遠い将来、人類よりもすべての面で優れた知的生物があらわれて、生物多様性の観点から人類が保護動物になったら、人は何を誇りとして生きていけばいいのか?もっと近い将来、ロボットが人よりもすべての面で人を上回ったら、人の存在価値はどうなるのか?

他の動物や人工物に比べて、人に優れているところがたとえ一つもなくても、人は人であるだけで存在価値がある。僕はそう信じている。人と人の間においても同様だ。他の人に比べてどこも優れていなくても、人は、その人であるという理由だけで、存在価値がある。

100m走でも、マラソンでも、すでに人は機械(たとえば自動車)に負けている。でもいまでも人は速く走ることをオリンピックで競い、その勝者は賞賛されている。将棋やクイズで機械(コンピュータ)に負けても同じだろう。人の知的行為としての将棋やクイズは、これからも決してなくならない。

機械(コンピュータ)が人に近づき、あるいは超えることによって、人は改めて人とは何かを考える。そして自らの奢りを知る。それによって人の本来の姿が浮き彫りになる。人が人であることの本当の意味を知る。