専門家の旗色が悪い。あえて専門家を擁護すれば、専門家には責任がある。考慮すべきことが余りにも多く、正確さも要求される。結果として発言が慎重になる。わかりにくくなる。一般の人からはそれが歯痒くみえる。専門家はそれを乗り越えて発言することが要請される。
専門家、特に科学の専門家は、どこまで自らの主義主張を持つべきか。主義主張により科学的真実が曲がる恐れがある。主義があると真実であってもその立場からの言説とみなされる。一方で、専門家も人間である。専門家としてでなく、一人の人間として主義主張を持つ。それが大切なのだろう。
専門家がどこまで行政に関わるべきか、これも悩ましい。発言に責任をもつためには関わることが要求される。一方で、自らの主張を貫徹するためには関わらないほうがいい。それぞれに存在意義がある。重要なことは、専門家としてそれぞれを互いに尊重することだ。
事件が起こるとネットはさまざまな専門家の発言で溢れる。どの専門家の言うことを信ずるか、それを受け取る一人一人にまかされている。ひとつ大切なことがある。自分の不満をそのまま代弁している主張には、少し距離をおいた方がいい。単なる自己満足となって冷静な判断を誤るからだ。
専門家は複数のシナリオを考える。責任ある発言は条件つきにならざるを得ない。それに対してメディアは、条件つきは人を不安にするとの理由で、条件なしの二者択一の発言を要求する。しかし、それに応じた不本意な発言は、後でメディアから嘘をついたと批判される。専門家の悩みは続く。
専門家には二通りある。解説・論評する側の専門家と、される側の専門家。本当の専門家はノーベル賞学者のように後者のはずなのに、日本では前者を専門家と呼ぶことが多い。明治の頃から、欧米の動向を解説・論評すること、それが専門家の役割だったからかもしれない。
専門とは?専門家とは?それがいま問われている。もし社会が専門家を大切にしなくなったら、誰もそれを目指さなくなる。この国は滅びる。その道を極めた専門家は、尊敬の対象でなければならない。専門家もまた、それに応えていかなければならない。