役に立つこと 2011.05.01-05.07

近代社会では、「役に立つこと」が社会の規範であった。役に立つことによって、人は自分自身の存在意義を見いだしてきた。人にもそれを要求した。ところが、これからは「役に立たない」人が増える。高齢者、病人、植物人間・・・。

不幸にして植物人間になってしまった人を先端医療によって延命させる理由はなにか。社会に復帰する可能性がないという意味では、将来にわたって「役に立つこと」はない。役に立つことだけが人の存在理由だとしたら、少しでも延命を願う家族の気持ちに応えることはできない。

なぜ、近代社会では「役に立つこと」が重要なのか。一つには社会的な分業がある。それぞれが役に立つことを分業することにより、近代社会は成り立っている。もう一つは、近代が「役に立つ」という効用重視の時代であったからだ。目に見える結果のみを重視してきたからだ。

「役に立つこと」のみを社会の規範とすると、役に立たない人を支える福祉は無意味になる。それはおかしい。福祉を必要とする人たちが、社会の役に立てなくなっても当然それを受ける権利がある。そのような論理を構築しなければならない。

「役に立つこと」のみが人の生きる意味だとすれば、役に立たなくなったことを自覚したときに、人はどうすればいいのか。それは、たとえば老人にとって辛いことだ。むかし役に立ったからご褒美だと言われても、寂しさが残る。

人の「役に立つこと」は嬉しいことだ。でも、「役に立たなければいけない」という近代社会の呪縛から、そろそろ解放されていい。もっと自由になっていい。「人は社会に役に立つからではなく、人としてただ生きているだけで十分な存在意義がある」のだ。

「役に立つこと」は、成長を目的とした20世紀後半の日本では重要なことであった。でも、さまざまな事情で社会に適応できない人もいる。役に立ちたいと思ってもできない人もいる。それでいい。みな生きる権利がある。そう言えるような時代が来てほしい。いや来なければいけない。