わかるということ 2011.05.08-05.14

わかるとは何か。わかったつもりになっても実はわかっていないこともある。その道を極めれば極めるほど、わからないことだらけになる。そもそも、わかるとはどういうことなのだろうか。

わかるとは何か。理系、特に自然科学では、真理が一つであることを前提に、要素還元主義という手続きで、客観性と普遍性を保証できたときに、わかったとみなす。その手続きを適用できないときは対象外となる。その意味では、世の中のことはまだ何もわかったとは言えない。

わかるとは何か。文系では、言葉による論理的な「説得性」かもしれない。そこにいかに客観性と普遍性を担保するかが勝負となるが、そもそも真理は一つなのかという前提の議論も必要になる。

わかるとは何か。工学者は、それとまったく同じものを自らの手で作ることができなければ、わかったとは言わない。例えば、心も含めて人と完全に同じふるまいをするロボットができなければ、人はわかったことにならない。

わかるとは何か。その本質は「関係の発見」かもしれない。それまでばらばらだったものが結びつく。あるいは自分が持っている既存の知識体系と関係づけることができる。そのとき人はわかった気になる。

わかるとは何か。それは言葉では説明できない「ひらめき」かもしれない。それによって深い霧が晴れる。暗中模索に光が射し込む。急に視界が広がる。暗中模索が長ければ長いほど、わかったことそれ自体に感動する。

わかるとは何か。一番難しいのは人どうしがわかりあうことかもしれない。わかったつもりになることが、実は危ない。人にはそれぞれ他人にはわからないことがある。それを認めることが、実はわかるということの第一歩なのだ。