テレビの番組で、教養バラエティーが多くなった。そこで専門家は、早口で面白おかしく解説することが求められる。面白おかしくはともかくとして、なぜ早口なのだろう。もともと教養は、時間をかけてじっくり考えることが本質であるのに。
大学では、まずは教養教育から始まり、専門教育がそれに続く。教養は専門の前座のように見られているけれども、専門を修めた後の教養はもっと大切である。教養が幅広いことは当然であるが、実は専門よりもはるかに奥が深い。
博士には教養が必須である。単に専門分野をマスターしただけでは、それは修士でしかない。博士には、文字どおり博識(教養)が要求される。英語のDoctorの語源はdoceo(教えること)であり、指導できることも博士には求められている。
すぐに役にたつ知識は教養とは言わない。ヨーロッパでは、かつてはラテン語を読めることが教養人の資格であった。言い換えれば、役に立たないことの大切さを知っていること、それが教養なのだ。
教養にはユーモアがつきものである。少なくともユーモアが言える余裕がないと、それは教養とは言えない。ユーモアは相手の気持ちを和ませる。相手への思いやりも教養である。
教養はどうすれば身につくか。王道はない。本を読むのもいい。それは知識の宝庫である。人に学ぶのもいい。知識以外の大切なことを学べる。そして好奇心。好奇心に忠実になれば日々の生活で接することがすべて教養につながる。
教養は、他人と競争するものではない。それを誇ったときに教養ではなくなる。奥ゆかしくなければ教養とは言わない。奥ゆかしいことを誇ってもいけない。教養は難しい。