今あなたの隣に恋人がいる。あなたに優しい。でもその恋人は本物とまったく同じロボット。本物はいま別の人とデートしている。あなたはそれで満足できますか。これはある大学の講義での学生への質問である。ほとんどの学生は満足できないと答えた。それは何故なのだろう。
世界にたった一人の大好きな人が、その人の大切な時間と空間を、私一人だけのために共有してくれている。それが嬉しい。いま一緒にいる恋人は、一人しかいない本物でなければならない。百体あるロボットの一つが隣にいても、それがたとえ本物とまったく同じでも、嬉しくない。
「かけがえのない」という言葉がある。文字通り「失われたときに掛け替えることができない」こと、つまり代わりになるものがないことだ。ロボットはかけがえがあるが、本物の恋人はかけがえがない。だから愛おしい。そのかけがえのない恋人が自分だけに優しい。だから嬉しい。
「かけがえのない」ものの代表は、人の命(いのち)だろう。命には代わりになるものがない。その命を支える自然そして地球も、その代わりはない。かけがえのないものは、失われたらとりかえしがつかない。大切にしなければならない。
人にはそれぞれ「かけがえのない」ものがある。例えば子どものときの玩具箱、そこには他人にはわからない、かけがえのない宝物がつまっている。それぞれの思い出の中にも、かけがえのないものがたくさんある。人生は、かけがえのないもので満ち溢れている。
ゲームの中の命はかけがえがある。主人公が死んでゲームオーバーになっても、またやり直すことができる。デジタルの世界は、みなかけがえがある。本物とまったく同じコピーを自由に作り出すことができる。いま私たちは、そのようなかけがえのあるデジタルの世界を生きている。
「かけがえがある」世界を担うデジタル技術は、「かけがえがない」ことで満ちている人間世界と、これからどう関わるのであろうか。かけがえがあることは、社会のインフラとしては大切である。しかしそのインフラの上には、かけがえのない人の生活や文化があることを、決して忘れてはならない。