ハラッパという遊び場 2011.06.26-07.02

子どもは大人になるための準備期間だ。楽しみながら大人になるためのトレーニングをするしくみとして、遊びがある。その遊びを否定された子どもは大人になれない。

遊びには、ストレスからの逃避という意味もある。子どもだけでなく大人も遊ぶのはそのためである。子どもは親からのストレスを避けて遊びに逃げる。親は逃げられては困るから、子どもの遊びを敵対視する。

子どもの遊び場として、かつてハラッパがあった。ハラッパには、土管はあるけれども遊び道具はない。子どもたちは、そこで自ら遊びを工夫して創造する。ハラッパそのものも自分たちで管理する。大人はそれを遠くから眺めるだけで、ハラッパに入って干渉することはない。

ハラッパには、ジャイアンのようなガキ大将がいた。ガキ大将には強大な権力があった。スネ夫のような取り巻きもいた。けんかもあった。まさに大人の社会の縮図である。そこで子どもたちは大人になった。でも、いまガキ大将はいない。大人がそれを問題視して、追放したからだ。

いま都会にハラッパはほとんどない。社会がハラッパを子どもたちから奪ってしまった。都会に空き地があっても、それは子どもたちが入れないように柵で囲われた。立ち入り禁止になった。あるいは駐車場になった。

都会からハラッパを追放した大人は、子どものために代わりに公園を用意した。でも、それは大人によって徹底管理された空間である。子どもは与えられた遊具で遊ぶことだけが許され、自ら遊びを工夫することは禁じられた。そこは子どもたちにとって遊びの空間ではなくなった。

大人になるための遊び場としてのハラッパ。単なるノスタルジアでなく、それを新たな形でどう構築するかは緊急の課題である。子どもたちが大人になれないまま次の世代の親になるようなことがあれば、そのような親の元に生まれた次の世代が抱えている問題は、より深刻である。