コンピュータ画像処理でつくられたアイドルが話題になっている。そのソフトも公開されている。20年以上前から顔画像処理に関わってきた立場からは驚きはない。技術が進歩して誰でもが使えるようになったことに感慨はあるけれども。
不気味の谷という言葉がある。合成人間が本物の人間に近づければ近づくほど不気味になる。そこには越えることが難しい谷があるという説である。コンピュータで作られたアイドルにその谷がないとすれば、それが目指しているものが本物の人間ではない、ということなのかもしれない。
アイドルはもともと人工的な偶像である。バーチャルアイドルの人気は、皮肉にもその偶像性を浮き彫りにしただけのようにも見える。偶像としてのアイドルを徹底すると、それは人である必要はない。人工的に作ったほうが理想に近づく。
あるイベントの出演者控え室で、いまをときめくアイドルグループと一緒になったことがある。彼女たちはみな普通のあどけない少女だった。そこに用意されていた料理に歓声をあげ、はしゃぎまわっていた。それが舞台の上では、素晴らしい演技をみせていた。プロとしての彼女たちがそこにいた。
アイドルは、それを演じている一人一人は、みな普通の人間である。中学生、高校生として恋もする。一方で、メディアでは偶像として夢を与える存在となる。二つの顔に、さまざまな葛藤もあるはずだ。その葛藤が、それぞれの人としての成長に結びつくことを祈る。
メディアにおける自分、そして本物の自分、スーパースターになればなるほどその乖離に悩むようになる。エルビス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、彼らは本当に幸福だったのだろうか。彼らもまた、メディアによって作られたバーチャルな存在だったのかもしれない。
バーチャルアイドルは、ビジネス戦略としては面白い。技術的にも進歩した。僕も少しは貢献しているかもしれない。でも、それが本物のアイドルよりも人気がでるようになったら、僕には一抹の寂しさがあるだろう。それはなぜなのだろうか。