便利な時代になった。技術は生活を便利にした。いま私たちはその恩恵を受けている。もう不便な時代には戻れない。でも「便利さ」には、さまざまな罠が仕掛けられている。
便利とは、手間がかからないことを意味する。手間がかかるとき、不便なときは、本当に必要なことしかできない。行動の前に選択という大切なプロセスが必ず入る。選択には意志が働く。便利になるとそれがなくなる。選択なしに意志なしに行動するようになる。
便利になると、何でもできる気になる。いつでもできる気になる。でもその気になると、結局は何もしない。便利さは人を怠惰にする。もともと人は怠けようとして、便利さを追い求めた。当たり前のことかもしれない。
便利になると、安易にモノを生産するようになる。産業革命によって生産が便利になった。容易に大量生産できるようになった。それは不必要な大量消費を要求した。大量生産はエネルギー危機を招き、大量消費によって人はゴミ処理に追われるようになった。
便利になると、情報も大量生産するようになる。例えば電子メールは、リストを使えば安易に同報できる。必要ない相手にも選択が面倒だから送ってしまう。迷惑メールは、その安易さを最大限に活用する。結果としてメールの受信者の負担が増える。情報処理というゴミ処理に追われるようになる。
便利さは必ずしも人を幸せにしない。特に競争社会のもとでは、決して仕事や生活を楽にしない。新幹線ができて日帰り出張が可能になった。それはサラリーマンの生活をますます過酷にした。便利さは、結局は企業の競争を激化させただけだったのだ。
便利になると、葛藤なしに行動できる。逆に不便だと、さまざまな葛藤が生ずる。その葛藤が人を成長させる。葛藤のない人間は退化する.その意味では不便な方が人のためになるのかもしれない。便利がいいのか、不便がいいのか、新たな葛藤がそこで生まれる。