顔とは何か 2011.09.18-09.24

なぜか世の中では、僕は「顔」の専門家ということになっているらしい。でも、そもそも顔とは何なのだろうか。専門家としてではなく、あくまで個人として自問する。

マスコミの僕への取材は顔に関するものが多い。その取材に来る記者は僕と会うときに緊張するらしい。自分の顔を分析されるのではないかと。でもその心配は不要である。コミュニケーションしているときは、相手の顔を分析できない。人ではなくモノとして見なければ、顔は分析できない。

電車の中で漠然と前に座っている人の顔を見ているときに、目があっただけで、悪いことをしていないのに、思わず目をそらしてしまう。それが顔なのだ。恋人同士は別として相手の顔は凝視できない。顔は思わず目をそらすだけの力を持っている。

顔を研究するのにはテレビがいい。特にニュース番組を音声なしで見るといい。穴のあくほど見つめても相手は嫌な顔をしない。逆に、テレビの中の顔に真正面から見られても、こちらは緊張しない。風呂上がりの半裸でも気にならない。

テレビに映る顔は、その視線が気にならないという意味で、本当の顔ではない。もしかしたら電車の中で化粧する女性にとって、周りの顔は、テレビの中の顔と同じなのかもしれない。見られているという意識がなければ、気にせずに化粧ができる。

いま街には顔らしきものが溢れている。電車の中では、週刊誌の中吊り広告に無数の顔が晒されている。尊敬する哲学者の鷲田氏の言葉、いま顔は貧しくなった。顔ではない顔ばかりになった。まさにその通りだと思う。

顔には特別の力がある。決しておろそかに扱ってはならない。でも顔を怖れていたのでは顔を科学することはできない。顔をモノとして見ることができない僕は、顔学者としては失格かもしれない。