志学から従心へ 2011.09.25-10.01

孔子の言葉。「志学:十有五にして学に志す」「而立:三十にして立つ」「不惑:四十にして惑わず」「知命:五十にして天命を知る」「耳順:六十にして耳順う」「従心:七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」。僕の場合はどうだったのだろうか。どうなるのだろうか。

15歳は「志学:十有五にして学に志す」。僕が本当に学を志したのはいつだろう。21歳の時に、民間企業の研究者だった父親が急死した。学が大好きであった父から、強引に人生のバトンタッチがおこなわれた気がした。それが僕の志学だったかもしれない。

30歳は「而立:三十にして立つ」。自分の家庭を持つことが「立つ」ことであるとすれば、僕の場合も確かにそうだった。でも研究ではそうではなかった。新しい研究分野を模索しながら、いつも転んでばかりいた。いつも惑っていた。

40歳は「不惑:四十にして惑わず」。確かに僕の場合も40歳のときに一つの踏ん切りがついた。世の流れに従うのではなく、「自分は何を本当に面白いと思っているのか。何をやりたいのか」。それを一人称で自問自答することが、僕の生き方の原点になった。

50歳は「知命:五十にして天命を知る」。これは天から与えられた使命を知るという意味であるが、僕は勝手に「自分の命を知る」つまり「人生のカウントダウンが始まった」と解釈した。無限のように錯覚していた命が、実は有限であることを知った。それが僕にとっての「知命」であった。

60歳は「耳順:六十にして耳順う」。僕の場合は逆かもしれない。聞くところ理にかなえば受け入れるのではなくて、本当かと疑うようになった。一方で感謝の気持ちは強くなった。理にかなうからでなく有難いと思う気持ちで、素直に受け入れるようになった。

70歳は「従心:七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」。まだ70歳には少しあるが、できれば僕は「心の欲する所に従って矩を踰えたい」と思う。少なくとも、社会的な矩には縛られたくない。自由に生きたい。なぜなら70歳以降が本当の青春であり、志学のときなのだから。