生と死 2011.10.02-10.08

青春時代、僕はいつも死を意識していた。自分には自殺する権利があると思っていた。その権利を子どもが生まれたときに放棄した。自殺を考えることは単なる我が儘となり、いかに生きるかが課題になった。そしていま、高齢者と呼ばれる年齢になって、再び死を意識しつつある。

四苦八苦という言葉がある。この四苦は「生老病死」を意味する。仏教では生きることも苦である。生だけが特別ではない。言い換えれば、老病死も特別ではない。老も病も死も、生と同じなのだ。それをそのまま受け入れることが、まずは大切なのだろう。

「死は生の一部である」これは村上春樹の言葉であるが、僕は「生は死の一部である」と思うことがある。死という海がまずあって、生はその海面に浮かび出ては消える水泡のようなものだ。だから空しいということではない。僕はそこに意味を見いだす。

人は誰もが死ぬまで生きている。死ぬまでは「生きる権利」がある。一方で誰もが死ぬ。次に生きる世代のために「死ぬ義務」がある。すべての生命体は、死ぬことを前提として、次の生命を生みだす。死がなければ、人類という種の保存はできない。次の世代の文化も育たない。

生は有限である。それを知ることによって、生が愛おしくなる。そこから本当の生が始まる。例えば末期癌を宣告されることにより、有限の生を知る。何人もの友人が癌で亡くなった。大変な苦しみだったに違いない。でも、その友人たちは最後にいい人生を送ったのではないかと、ふと思うことがある。

脳血管疾患、心臓病、癌は三大死因である。どれで死ぬのがいいか。脳血管疾患は、後遺症で家族の負担が大きい。心臓病による突然死は、本人は楽だけれども、家族の悲しみは長く続く。その意味では、癌が一番いいかもしれない。宣告された後に残された人生を再設計できる。家族も親孝行できる。

僕が死ぬとき、周りの人たちを悲しませたくない。そのためにはできるだけ長生きして老醜を晒した方がいい。一方で、誰も悲しまなかったら、それも寂しい。そのためには早めに死んだ方がいい。死のデザインは難しい。自分でデザインできることではないけれども。