ノーベル賞 2011.10.09-10.15

戦後すぐ、湯川秀樹のノーベル賞受賞が日本を力づけた。小学校低学年の頃、湯川秀樹の伝記が僕の愛読書だった。僕もノーベル賞を夢見た。僕が大きくなるときまでに、ノーベル賞の資金がなくなるのではないかと本気で心配をした。

ノーベル賞は、学術の進歩に寄与する素晴らしい業績に与えられる。しかし、それだけでは学術分野に閉じた賞になってしまう。それ以上にノーベル賞は、人類に貢献してきた。社会を力づけ、子どもたちには夢を与えてきた。次の時代を切り拓いてきた。

研究者として歩みながら、いまノーベル賞とは無縁なところにいる。挫折したという感覚は正直言ってない。もしあるとすれば、恵まれた環境を与えられながら、怠け者でそれに応えられなくて申し訳なかったという気持ちである。

ノーベル賞の季節が来るたびに、落ち着かない研究者もいると聞く。そのような立場になることは素晴らしいと思う一方で、僕の専門分野がノーベル賞の対象でなくて良かったとも思う。賞は取れれば嬉しいし感謝もするけれども、賞に一喜一憂する気持ちは好きになれない。

ノーベル賞は、経済学賞を除いて、1901年に誕生した。100年以上経って、なぜ今でもその分野の学術だけに人が騒ぐのか不思議に思う。新しい分野の開拓者に与えられるノーベル賞以上に権威のある賞があっていい。

ノーベル賞を取っても取らなくても、研究そのものは変わらないのに、賞によって評価が変わり、場合によってはその研究者の人生が変わるのは何故だろう。もしアインシュタインがノーベル賞を取らなかったら、アインシュタインは無能な研究者ということになるのだろうか。

学術には、賞だけからは見えない大切なことがたくさんある。ノーベル賞をとるのは、野球で言えばスター選手だ。その裏には、監督もいれば球団のオーナーもいる。打撃投手もいる。応援団もいる。学術の世界も同じだ。多くの人々によって支えられている。そのことを忘れてはいけない。