便利なメディアは便利か? 2011.10.30-11.05

ついこの間まで、コミュニケーションの手段は、手紙と電話、それにFAXだけだった。それがいま電子メールが当たり前となり、ツイッターやSNSが登場し、電話もモバイルになった。メディアは便利になった。でも一方で、それは様々な問題を孕んでいる。

コミュニケーション技術は「いつでもどこでも誰とでも」を目標としてきた。でもそれは本当に便利なのだろうか。「誰とでも」は同じ意味で「誰からも」となる。「いつでもどこでも誰からも」は、例えばストーカーに悩まされている人にとっては、この上ない不便なメディアとなる。

一般に、何かをするときに便利なメディアは、それを「したい人」あるいは「されたい人」にとっては確かに便利である。しかし「されたくない人」にとってはむしろ不便になる。コミュニケーションの前提は、相手の「個」の尊重である。それを無視したコミュニケーションは暴力でしかない。

人には「コミュニケーションをする権利」がある。言論・表現の自由、通信の自由がこれにあたる。もう一つ、「コミュニケーションをしない権利」があってもいい。自分自身の聖なる空間と時間を、他者から邪魔されずに確保する権利である。

便利なメディアにはまってしまうと、コミュニケーションに忙殺されるようになる。平穏な生活が脅かされるようになる。ときとして、それは麻薬のような力を持つことがある。そこから抜けられなくなることもある。時間の無駄使いもおこる。それは本当に「便利」と言えるのだろうか。

メディアが便利になると、それを真っ先に最大限に活用するのは犯罪者かもしれない。便利なメディアは、犯罪にとっても好都合である。特に先端メディアは、防護策だけでなく法体系も追いついていないから、犯罪も早い者勝ちである。

メディア技術も、人と人を繋ぐだけでなく、他者から繋がれないようにする技術の開発が望まれる。いわば情報環境をアンインストールする技術である。インストールとアンインストール、両方を使い分けることによって、人は情報環境の中で安心して暮らせるようになる。