多数意見と少数意見 2011.11.27-12.03

メディアには様々な主張が展開される。約8ヶ月前に次のようにつぶやいたことがある。「自分の不満をそのまま代弁している主張には、少し距離をおいた方がいい。単なる自己満足となって冷静な判断を誤るからだ」 自分自身の反省も含めて、その難しさを改めて思う。

自分の考えに近い主張を受け入れることは快適である。自分を肯定してくれるからだ。これに対して、自分の考えを否定する主張は、本能的に拒否して遠ざける。結果として、他の考え方ができなくなる。それは人の弱さであるが、社会全体がそうなると様々な問題が起こる。

衝撃的な事件が起こると、どうしても社会は感情的に反応してしまう。メディアも迎合してステレオタイプ的な報道をくりかえす。それをさらに鼓舞する書物も競って出版される。市場で売れるからだ。こうして社会全体が、次第に一つの主義主張に傾いていく。

社会が大合唱を始めると、それに反する主張をすることは勇気がいる。つるし上げになる危険があるからだ。結果として少数派は黙り込む。政治も大合唱を利用する。9.11直後のアメリカがそうだった。圧倒的な支持を背景に無益な戦争に走った。多くの犠牲者がでた。

かつて日本が戦争をしているとき、国民の大部分は、それを聖戦であると信じていた。ドイツもそうだった。ヒットラーは国の救世主とされた。少数意見は封じられ、結果として、日本もドイツも、自らの力では戦争をやめることはできなかった。

社会が一つの主義主張に傾いたときは、本当にそうか改めて疑問を持った方がいい。多数意見に賛同することは易しく、自分とは反対の少数意見に耳を傾けることは難しい。でも、その心構えだけは忘れないようにしたい。不幸な歴史を繰り返さないためにも。

ネットの時代には、民衆の生の発言が政治的な力を持つようになる。それは民主主義の新たな形かもしれない。しかし、多数の力によって少数意見を圧殺する危険性も十分にある。そうならないように、ネットにはどのような仕組みが必要になるのだろうか。