富士山 2011.12.04-12.10

地震があって富士山が大噴火する夢をみた。地震の恐さよりも、これであの美しい富士山が見られなくなるのかという寂しさと悲しみで一杯になった。日本という国が亡くなるような気がした。

僕は富士山を眺めることが好きである。東海道新幹線は必ずE席を予約する。僕の仕事場からも天気がいいときは富士山が見える。何度見てもあきない。いつまでも見ていられる。富士山にはそれだけの魅力がある。

静岡から見る富士山と、山梨から見る富士山は違う。月見草が似合うのは山梨であって静岡ではない。逆に高度成長の象徴として登場した新幹線は、太平洋側の富士山が似合う。富士山にはさまざまな日本の姿が投影されている。

日本の将来について講演したときに、若い聴講者から「このグローバルな時代に、なぜ日本という国にこだわるのですか?」という質問がでた。「そこに富士山があるからです」と答えようとしたけれども、ますます混乱させる気がしたので止めた。

富士山が人工物だったら、これほどまでに美しく思うだろうか?旅にでたとき、ある町で山の上にそびえ立つ巨大な観音像を見た。それは由緒あるものなのかもしれないが、感慨はまったくなかった。その観音像が富士山よりも高くても、それは同じだろう。

僕は富士山に登っていない。登ろうとも思わない。登ってしまったら富士山が見えないからだ。更に言えば、富士山は征服する対象ではなく、遠くにあって愛でるもの。それほど大切な存在として富士山はある。

なぜ富士山にこだわるのだろう。それは日本という国をどう考えるかによるのかもしれない。僕にとって、その本質は国家ではない。むしろ土地である。その土地で助け合って生きる人である。その人たちを美しい自然が包んでいる。その象徴として富士山がある。