平等 2012.01.22-01.28

いまは平等社会である。何事も平等が良しとされる。しかし何をもって平等とするのか。そもそも平等とは何なのか。それを曖昧にして「平等」という言葉だけが一人歩きするとおかしなことになる。

平等について考えるときに心せねばならないことがある。この種の議論は、自分がおかれている立場から自由になれないからだ。例えば男女平等に関しては、僕は男の立場からの発想になる。そのような場合は、自分の立場とは反対方向にバイアスをかけることが必要になる。

平等がなぜ主張されるのか?それは平等の反対語として差別があるからだろう。本人の努力ではどうにもならないことを理由に、他者よりも不利益を与える。それが差別である。同じように努力しても、おかれた環境によって報われ方がちがう。それも差別となる。

競争は平等の反対語ではない。かつて小学校の運動会の徒競走で、みな手をつないで同時にゴールすることが話題になった。その真偽は別として、勉強ができる子もいれば運動が得意な子もいる。それぞれの能力において競うことは、そこで差がついても平等に反しない。

すべてを平等にするためには、下にあわせる方がやさしい。だからだろうか。社会にはそのような形の平等化が多い、確かに最低ラインにあわせれば見かけは平等になる。しかしそれでは向上がなくなる。出る杭を打つという社会になる。

平等はすべてを同じにすることではない。人にはそれぞれに個性がある。能力的にも得意なことが違っていい。重要なことは、その違うことをきちんと認める多様な価値尺度である。とかく社会は一つの尺度で序列をつけたがるけれども、もっと柔軟であっていい。

人は誰でもそれぞれの個性や能力を伸ばす権利が、同じように与えられている。その権利と機会を保証することを平等という。決して、個性や能力を画一化することではない。画一化してしまったら、人は人でなくなる。