科学における美 2012.01.29-02.04

美を統一テーマとする学際的なセミナーで、「科学における美」について講演するように依頼されたことがある。難しいテーマであるけれども、もしかしたらこれは科学の一つの本質なのではないかと思うようになった。

芸術では美を追求する。それに対して科学では知を追求する。まったく別の営みのように見えるけれども、科学者は知の中に美を求めている。それを見いだしたときの感動は、芸術における感動と共通する。その意味では、科学も芸術も同じ営みであり、科学者も美の探求者である。

自然科学では自然を観測することによって、膨大な知識が得られる。その知識をそのまま羅列したのでは科学にならない。その知識の背後に共通にある法則を発見して、それを簡潔に表現することが科学である。その表現が簡潔であればあるほど、その科学は美しいとされる。

質量とエネルギーの等価性を示すアインシュタインの方程式の簡潔さは感動を与える。マクスウェルの方程式もそうだ。たった4つの方程式で、電磁気学の教科書に書かれているすべての現象を説明できる。言いかえれば、それだけを覚えていれば、大学教養レベルの電磁気学の問題はすべて解ける。 

自然を記述するためには、言語が必要となる。数式はそのための言語である。ニュートンは、天体運動の記述言語として積分記号を考案した。科学における美は、もしかしたらそれを記述する言語の美かもしれない。数式という言語は、「数学」という科学のなかで最も美しい分野を切り拓いた。

科学の美は、自然の美であるとも言える。自然には美しい秩序があるから、美しい表現ができる。科学者は、それをひたすら信じて研究する。しかし一方で、それは単なる信仰かもしれない。美しくない自然があるとすれば、それはいまの科学では扱えない。科学の本質的な課題として残る。

科学は、その対象である自然の美の単なる観察ではない。近代における科学という行為は、対象とする自然そのものを大きく変えてしまった。これからの科学は、自ら崩壊させた自然をも対象としなければならない。科学における美の再定義が必要になる。