文化と空間 2012.05.27-06.02

古今東西、文化にはそれに相応しい場や空間が用意されてきた。例えば、絵画、彫刻には美術館、音楽、舞踊にはホール、芝居、演劇には劇場である。宗教画は教会が似合う。もちろん場の固定は形骸化をもたらすけれど、文化における場や空間の意味を、もう一度考えてみたい。

美術館は、その多くが白い壁の空間で作品を展示する。White Cubeと呼ばれることもある。それなりの理由があるのだろうけれども、そこには作品に付随しているはずの空間がない。それとも、作品が空間から独立すること、それが近代美術のメッセージだったのだろうか。

西洋音楽は、コンサートホールという特別に設計された空間で演奏される。そこでは咳をすることも許されない。これに対して、雅楽やバリ島のガムラン、祭りの音楽は屋外の自然のもとでも演奏される。虫の音が聞こえても気にならない。何が違うのだろう。

日本の美術は、もともと人の活動空間と一体だったように僕には思える。襖絵、屏風、掛軸、工芸品。さらには自然空間を積極的に取り入れたものも多い。あるものは生活に溶け込み、あるものは権力の象徴でもあったのだろう。いずれにせよ作品は、空間と密接な関係を持っていた。

利休の茶室は、単に茶を嗜む場ではない。そこは文化を集約する場であった。信長や秀吉の時代には、社交や政治の場になったけれども、現代の茶室とはどこなのだろうか。社交や政治の場が料亭やゴルフ場だとすれば、そこは果たして文化の場となっているのだろうか。

マルチメディアの初期の頃に「それはいかなる文化の場となるのか」という問いを発したことがあった。いまインターネットは世界を均質化しようとしている。モバイルはあらゆる場に侵入してくる。空間の均質化は文化を滅ぼす。その意味では、いま文化の危機にある。

インターネットやモバイルなどの情報メディアは、もしかしたらこれまでとは全く違った新たな文化を集積する空間になるかもしれない。例えば、利用者自身が文化の発信源となり、メディアはそれを共有する場となる。それは果たして歴史に残る文化を生み出す空間になるのだろうか。