近代における知の枠組みは、デカルトに始まると言われている。それは近代科学の指導原理となり、大成功を収めてきたけれども、そろそろ違った枠組みが登場してもいい。新たな知をデザインするキーワードは何だろうか。思いつくままにいくつか探ってみよう。
総合知:近代科学は、専門知の世界である。確かにデカルトは方法序説において、問題を出来るだけ小さく分けて、最も単純なものから複雑なものに達することを提案した。しかし、いまや環境問題に代表されるように、専門知を集めても全体を把握できない。全体を俯瞰する総合知が要請される。
感性知:近代合理主義は理性主義でもあった。そこでは感性的なものは除外して、理性のみを拠り所とした。科学技術において、確かに狭義の科学は理性が大切かもしれないけれども、社会や文化にかかわる技術の世界はそれでは不十分である。時代を直観してデザインする感性知が要請される。
表現知:近代科学は対象を細かく分析することから始まる、その意味では分析知である。一方でルネサンス期に万能の人と呼ばれたダ・ヴィンチは表現者でもあった。表現は科学技術においても本質である。表現は知の外化であり、知の客観化である。表現によって全体をイメージできる。
集合知:いまや一人でダ・ヴィンチになれる時代ではない。それぞれの専門が深くなり過ぎたからである。でも異なる専門家が互いに手を結べば、集団で一人のダ・ヴィンチになれる。これは学際知とも呼べよう。インターネットは、いまそれを可能にしつつある。
市民知:これまでの科学は専門家だけの閉じた空間で営まれてきた。これに対してネットワークは市民にも開放された新たな知の空間を提供している。市民はそれにどうかかわっていくのか。科学技術の監視だけなのか。それとも専門家だけの知を超えた新たな知を生み出せるのか。
新たな知の枠組みとしての「総合知」「感性知」「表現知」「集合知」そして「市民知」。それらは、科学と技術をどう変えていくのであろうか。さらには、やや大げさに言えば、様々な意味で限界がきている近代という時代を、どう変えていくのであろうか。