父親の権威 2012.06.24-06.30

「地震、雷、火事、親父」いまの若い人は知らないだろうけれども、昔はこれが恐いものの代名詞だった。なぜここに親父が含まれているのか。そう、昔は親父=父親はとても恐い存在だったのだ。でもいまは、どの家庭でもそう思われていない。

子どもが悪いいたずらをすると、昔の父親は厳しく叱った。子どもはそれを恐れた。言い訳はもちろん許されなかった。叱ることは父親の重要な役割だったのだ。そのような父親から、善悪について、子どもは身をもって学んだ。人生をいかに生きるべきかを学んだ。

かつての父親は、家長として一家の大黒柱であることを自覚して振る舞った。父親は家庭において絶大な権威を持っていた。家族もそれを当然のように認めていた。だから父親は、子どもにとって恐い存在であった。いまはそうでない。そのように振る舞うと、それは横暴とされる。非難される。

子どもに厳しく接することは、かつては家庭における父親の役割だった。それは子どもが大人に育つために必要なことであった。ところがいまは、日曜日に一緒に遊ぶこと、家事を分担することくらいしか、父親は期待されていない。いつからそうなったのだろうか。何故そうなったのだろうか。

戦後のある時期から、日本の家庭は父親不在となった。産業界が家庭から父親を奪ったのだ。24時間戦うことを要求した産業界は、5時に帰宅する父親を無能扱いした。父親は残業で深夜に帰宅して、家庭では疲れて寝るだけの存在になった。父親の家庭での役割は忘れ去られてしまった。

産業界に父親を奪われて、戦後の子育ては母親だけに任された。でもそれには限界がある。子どもを護る子育てが中心になって、子どもを自立させるしつけ教育は難しい。処方箋ははっきりしている。父親を家庭に戻し、母親もまた社会的自立を通じて精神的に自立することだ。

父親が当たり前のように家庭にいて、きちんと子どものしつけと教育にあたれば、父親の権威は自然と生まれる。それは昔通りの権威でなくてもいい。それぞれの家庭にそれぞれの形の権威があっていい。自分自身の反省も含めて、その大切さを改めて実感する。