僕は夜によく夢を見る。夜見る夢と未来の夢。意味は全く違うのに、なぜどちらも夢というのだろう。英語もdreamで同じである。いずれも現実ではないという共通点があるけれども、夜見る夢は、それが現実的でないから面白い。
僕はドラマチックな夢をよく見る。あるとき相思相愛の恋の夢を見ているときに目が覚めた。もったいないと思って、二度寝した。しかしそこで見た夢は数十年後にその恋を回顧している場面だった。相思相愛の恋は見事に破綻していた。
夢の中で、「いまは夢をみているに違いない」と気づくことがある。その夢が現実の世界ではありえない素晴らしい体験であるときは、敢えてそのまま夢を見続ける。でも肝心なときに、いつも目が覚める。戻りたくない現実に戻る。
僕は、夢の中で眠ることがある。そこでも夢を見る。その夢の中でも眠って夢を見る。逆に言えば、夢から覚めても、まだ夢の中にいる。いまの自分が夢から覚めているのか、夢見ているのか、全く区別ができない。区別つかなくてもそれでもいい。どうせ人生なんて夢のようなものだ。
いま対象を認識している自分が夢をみているのではない、その保証がどこにもない。それがデカルトにとって、最大の課題であった。そこから哲学が生まれた。でも僕にはどちらでもいい。夢でも現実でも楽しければいい。僕が哲学者になれなかった理由は、そこにあったのかもしれない。
まさに死のうとする夢を見たことがある。でも必ずその夢は覚めた。すでに自分が死んでいる夢を見たこともある。その夢は目覚めることで生に戻った。そもそも、夢は死とどういう関係にあるのだろうか。死は永遠に夢見ることなのか。それとも肉体的な死とともに夢も終わるのか。
脳波や脳磁図、さらにはMRIや光トポグラフィなどの脳機能計測装置を駆使して、眠っているときの夢の情景を映像化しようとする研究がある。難しい研究だけれども、いつかは実現するであろう。でも僕は実験の被験者にはなりたくない。夢は密かに楽しみたい。