試験 2012.07.22-07.28

試験は何のためにあるのだろう。入試は別として、教育の場では、学生の学習の手助けがその本来の姿のはずだ。それが人を選別する道具となっている。だから学生は試験が苦痛になる。自分のための試験であることを忘れてしまう。

学生の理解度をみる試験には、色々な形があっていい。一つの問題を一週間かけて解かせてもいい。答えがない問題を解かせてもいい。相談させながら解かせてもいい。学生ごとに違ってもいい。ところがいま、画一的な試験が求められている。客観性という謳い文句のもとに。

試験問題では、その問題を解くためのすべての条件が与えられていないと出題ミスとされる。実社会ではそうではない。条件をいかに見つけるかが重要となる。あるときこう出題をした。解くための条件が不足しているときは、それを補って答えよ。そのような問題があっていい。

試験問題の作成は、教師にとって大変な作業である。教えたことの本質を問えて、難しすぎても易しすぎてもいけない。作成すること自体がいい勉強になる。あるとき、学生にレポート課題をだした。この授業に最適な試験問題を自ら作成して、その問題の意図と模範解答をあわせて示せ。

試験でカンニングペーパーは良くないとされる。でも、そこに要点をつめこむ作業は、いい勉強になる。授業で何が重要であったかを理解しなければ作成できない。あるとき押印した小さな紙を配って、その紙だけ試験に持ち込み可とした。教育効果は抜群であった。

僕は過去問をときどき出した。学生の試験対策委員は過去問の模範解答を作って皆に配る。あるとき、たまたま手に入れた解答が間違っていた。その問題を出題して、試験場でこう学生に告げた。君たちが持っている模範解答は間違っているから、自分で解け。試験場はパニックになった。

いくつになっても試験は好きになれない。僕は学生の頃から同じ大学に45年間在籍した。教える身になっても、試験を受ける夢をよく見た。夢のなかでは、まだ大学の単位を残していた。定年で大学を退職したら、その夢をみなくなった。定年になってようやく大学を卒業したということなのだろうか。