大学の教育 2012.07.29-08.04

大学教員には、二つの顔がある。研究者と教育者。研究を第一と考えている大学教員は、教育を雑用と思う。大学における教員の評価が、研究業績を中心になされているからだ。それなりの研究業績をだしている教員ほど、教育はなおざりになる。

研究業績は、見かけだけれども、論文数などの数値で評価しやすい。短期的な評価ができる。それに対して、教育の成果は数値化しにくい。人が成長したかどうかの評価は数十年かかる。教育にも拙速な評価を導入すると、朝令暮改の教育改革を繰り返すことになる。

教育の客観的と称する評価は、往々にして教育を歪める。教育の現場にいない人には、それがわからない。教育は人である。教師と学生の信頼関係がまず基本となる。それは簡単には数値化できない。そのことを忘れると、教育は死ぬ。

教育ほど非効率なものはない。効率を第一に考えたら、そもそも教育は成り立たない。教育のほとんどの時間は、できない学生にかけることになる。教育以前の生活指導も必要になる。それが教育であることを自覚しなければ、教育者になれない。

研究を中心に考える大学教員は、優秀な学生が研究室に来ることを願う。理系の研究室では、学生は強力な研究スタッフとなる。結果として研究室に研究成果がでる。しかし、それはあくまで結果であることを忘れてはならない。教員は、自分の業績を挙げるために学生を利用してはならない。

つくづく思うことがある。本当に優秀な学生を教育する秘訣は、その邪魔をしないことだと。せめてできることは、いい勉学環境、いい研究環境を用意することであって、中途半端な指導はしないほうがいい。

教育の素晴らしいところは、教師である自分を遥かに超えて、学生が育っていくことだ。そしてそれがさらに次の世代を生み出していくことだ。自分一人でできることには限界がある。教育には無限の可能性がある。