らしい顔 2012.10.21-10.27

ある特定の集団の顔写真を集めて、その平均顔を合成すると、それぞれの顔の個性が打ち消される。それによって、元の集団の顔にある共通の特徴が浮き彫りになってくる。例えば、同じ職業の人の平均顔を合成すると、いかにもその職業らしい顔になる。

銀行員の平均顔は、銀行員らしい顔をしている。なぜだろうか。人事担当者が顔で採用したのだろうか。それもあるかもしれない。でもほとんどは新人のときはまだ学生の顔だったはずだ。それが数年すると銀行員の顔になる。そうなったときに一人前の銀行員になったと周囲から認められる。

集団には、それぞれ期待されている「らしい顔」がある。その集団にいるときは、そこに同化して、それらしい顔をしていた方が安心できる。一方で、同化されたくないという気持ちもある。その気持ちが強い人はわざと正反対を装う。でも、それも対比という意味で、「らしい顔」になる。

「らしい」と言えるのは、それを分類するカテゴリーがあるからだろう。そのカテゴリーにピッタリ収まったときに「らしく」見える。人は無意識のうちに人を分類する。分類できないと落ち着かない。分類できたときになぜか安心する。

顔が「らしく」見えてしまうのは、本当にきちんとした根拠があるのだろうか。それともこちらの偏見がそう見せてしまうのか。もしそうだとすると、それはときとして差別になる。人を「らしさ」だけで見かけで判断すると、本当のその人が見えなくなってしまう。

古い社会は、人に「らしさ」を要求する。例えば、女性には「女らしさ」を要求する。それは、社会がその価値観を押しつけているだけであって、本当の「らしさ」ではないことが多い。「らしさ」はそれぞれが自分の問題として決めればいいことであって、強制されるものではない。

僕は、分類されたカテゴリーの「らしい顔」ではなく、自分だけの「らしい顔」になりたい。でもそもそも自分とは何なのだろう。自分らしい顔とは、どのような顔なのだろう。それが言えるほど、自分をしっかり持っているだろうか。