僕は夜景が好きだ。僕の仕事場からの夜景も素晴らしい。眺めていて飽きることがない。わくわくする。なぜだろう。もしかしたら、夜景はたき火なのかもしれない。僕はそこに火を見ているのかもしれない。火を見ると僕の遺伝子(DNA)が騒ぐのかもしれない。
いつからかは必ずしもはっきりしていないけれども、動物としてのヒトは火を使うことにより生き延びてきた。特に夜間は、火によって獣から身を守ることができ、照明にもなった。寒い冬には暖をとれた。調理に使うようになって、人の栄養状態もよくなった。火はまさに文明であった。
火は人にとって特別の意味を持っていた、火は信仰の対象でもあった。日本では火には魂が宿るとされた。お盆では迎え火によって先祖の霊を受け入れ、送り火によって見送る。墓地に浮遊する人魂(ひとだま)は、文字通り死者のからだから離れた魂である。
人は、たき火を囲みながら、長い夜を火とともに過ごしてきた。ついこの間まで人が住む家屋には火を囲む空間があった。日本では囲炉裏、西洋では暖炉。人は夜の時間をそこで過ごした。火のそばにいるとなぜか安心する。癒される。それがいま、あっという間になくなった。
もう数十年も昔の青春時代のことになるけれども、僕はキャンプファイヤーが好きだった。みなで同じ火を眺めていると、なぜか何も言葉を交わさなくても心が通じたような気がした。手をつなぎながら歌うことで、みなの気持ちが一つになった。火には人と人の心をつなぐ働きがあった。
都会ではたき火が制限あるいは規制される傾向にある。ガスが使えないマンションも増えてきた。禁煙だとライターを使うこともない。現代人の日常から、文字通り火が消えようとしている。火に接したことがない、火の熱さも知らない子供たちが、これから増えていくのだろうか。
長い歴史のなかで、人にとって火は身近な存在であった。現代人はいま、その火を消そうとしている。人はそれで本当に生きていけるのだろうか。火とともに生きるということは、すでに人の遺伝子のなかに書き込まれているのではないだろうか。根拠はないけれども、秋の夜長にふとそう思う。