偽悪 2012.11.18-11.24

こどもは、大人になる時期に「はしか」のように偽悪ぶる。昔のチンピラもそうだった。大人になっても自嘲気味に偽悪ぶる人もいる。普通ならば悪は避けたい、あるいは隠したい。そのはずなのに、なぜ偽悪ぶるのだろう。

偽悪は、それ自体が独立した概念ではない。世の中に偽善があること前提とする。偽善があって始めて意味を持つ。自分が偽善者とは思われたくない。だから偽悪ぶる。世の中は善い人をもてはやす。だからあえてそれに逆らう。偽悪ぶる。

偽悪は、ちょい悪くらいが格好いい。一方で優等生は格好悪い。なぜか。大人の社会から評価される優等生は、そうでない人にとっては自分を低くみられることになるから、目障りとなる。むしろ、仲間うちではちょい悪を持ち上げたほうがいい。共感もできる。それによってみなが幸せになれる。

偽悪は、もしかしたらコンプレックスの裏返しかもしれない。コンプレックスがあるときは、それを無理に隠すよりも、自嘲気味に露わにしてしまったほうが気が楽になる。偽悪的に語れば、深刻ぶらずに軽く流せる。

偽悪は、人に褒めてもらいたいとの気持ちが裏にあるのかもしれない。偽悪気味に自分を低く言って、いやそうではないよと他人から否定してもらいたい。そのような気持ちが偽悪ぶる行為となるのかもしれない。

偽悪は、心の癒しでもある。人が生きていくうえで向上は大切だけれども、いつもそれを強いられていては窮屈になる。ときにはわざと自分を低くおいて、それでもいいんだと自分を慰めたい。周りからもそれを認めてもらいたい。

人はある境地に達すると、自然のままが一番いいと思うようになる。偽善も偽悪も、それがそれなりの意味があってのことであれば、それほど目くじらを立てる必要もない。それによって人を傷つけず、かつ自分自身が深刻ぶらずに楽しむことができれば、すべて許されていい。