足し算と引き算 2012.12.02-12.08

「引き算の生き方」が注目されている。「引き算の美学」という言い方もある。どちらかといえば僕もこれに共感する。なぜ足し算でなくて引き算なのだろう。なぜ引き算に魅力を感ずるのだろう。

近代という時代は、足し算でなりたってきた。進歩は足し算であった。足し算は積み上げである。たとえば、科学技術は典型的な足し算である。科学は明証的な知のみを積み上げることにより進歩してきた。技術も創意工夫を繰り返して、それを継承して積み上げることによって発展してきた。

いまの時代に、引き算という言葉に魅かれるのは、それなりに満ち足りているからであろう。戦後の日本はまずは復興するために足し算が必要であった。それによって人々は豊かになった。豊かになると本当の幸せとは何かを考えるようになる。それには引き算が必要であることに気づく。

足し算は今までを延長することによって,その将来をある程度予測できる。前へ進みやすい。一方の引き算はそう簡単ではない。引き算には勇気がいる。何を引くべきかの判断には感性が要求される。人生観や世界観,価値観が問われることとなる。そのもとでの引き算にはメッセージがある。

勝手な解釈をすれば、利休は引き算の人であった。秀吉の黄金の茶室に対して、そこから徹底的に引けるものはすべて引いていく。それが利休の茶室であった。侘び寂びの世界であった。文化は足し算に見えるけれども実は引き算である。利休はそれを教えてくれた。

個人的なことになるけれども、人生も終盤になって、次第に引き算に魅かれるようになってきた。砂上の楼閣のように積み上げてきたものを一つ一つ引き算して、最後に自分の肉体とともに自分の名前も消す。それができたら最高だと思う。残念ながら、まだまだ煩悩の中にいるけれども。

足し算と引き算、順番で言えば足し算が先である。足し算があるから引き算がある。その意味では、若い人にはまずは足し算を勧めたい。若いうちから変に老成しない方がいい。何もないところから引き算しても何も残らない。そもそも引き算ができない。