居直りという言葉は、普通は悪い意味で用いられる。辞書には、咎めを受ける立場にありながら、図々しくふるまうこととある。確かに、咎めに対しては謙虚でなければならないけれど、人生は咎めを受けることばかりだ。ときには居直った方がいいこともある。
どうしても居直らなければならないときは、高姿勢で胸をはってはいけない。図々しくふるまってはいけない。そのような居直りは本物ではない。相手を怒らせるだけだ。本当の居直りは、ひたすら低姿勢で、頭を下げて、相手を立てる。相手の納得があってはじめて、安心して居直ることができる。
居直りは老人力だという人もいる。余生をひたすら居直り続けて、そのまま帰らぬ旅に出る。それですべてが解決する。これは老人の特権だ。老人には恐いものはない。後に残された人たちに迷惑がかからないようにする。そのことだけを考えておけばいい。
忘却は究極の居直りかもしれない。忘却すれば、居直っていると思わないから、罪の意識もない。ストレスにもならない。人は忘却することによって、心安らかに居直って生きることができる。すべてを覚えていたら、人生いつも謝り続ける以外にない。
人は本当に切羽詰まると、居直って笑い出す。なぜだろう。もしかしたらそれは心の防御反応かもしれない。笑うことにより、心が壊れないようにする。その意味では笑いが残っているときは安全である。それもなくなったら本当にあぶない。
人生における居直りとは「人は生きているだけで価値がある」と思うことだ。いま僕はそう考えている。人の役に立っていないから、生きる価値がないなどと悩む必要はない。役に立たなくてもいい。生かされていることだけに感謝して、居直って生きよう。人にはそう居直る権利がある。
居直りには二通りある。他人への居直りと自分への居直り。自分自身への居直りは遠慮することはない。胸をはってもいい。人生は負い目ばかりだ。一つ一つにクヨクヨしたら、身体がもたない。それ以上に心がもたない。実はこのようにつぶやくことこそ、僕にとってはすでに居直りなのだ。