「早枯れ」という園芸用語があるらしい。早熟ではない。熟す前に早くに枯れてしまうことだ。最近、一部かもしれないけれど、心が早枯れしている若い人が増えているような気がする。僕の思い過ごしだろうか。
このツイッターでも、僕と同年代を対象としてシニアの生き方についてつぶやくと、なぜか若い人たちの受けがいい。僕としては、シニアの生き方に若い人がすぐ共感してしまうと、逆に不安になる。そんなに早枯れしてしまっていいのだろうかと。
老人は人生が有限だと自覚して、それを前提に生きる。一方で若い人は、少なくとも自分の未来には無限の可能性がある、そう思う権利がある。その権利を行使しないで、早々と放棄してしまった若い人たちを、早枯れというのだろう。
若くして人生に絶望することは昔からあった。戦後のある時期に、太宰治の「人間失格」がもてはやされたこともあった。しかしそれは大人になるために必要な関門の一つであって、人生に悩むことは決して早枯れではない。悩む前に達観してしまうことが早枯れなのだ。
すべてを見通してしまったかのように、人の発言や行動を茶化したり批判する。それは典型的な早枯れだろう。優等生はともすれば早枯れになりがちである。本当の優等生はそうでないけれども、中途半端な優等生は、それこそ中途半端に先読みして、結局何も行動しない。もちろん冒険もしない。
早枯れの若い人が増えているのは、社会が閉塞しているからだとも言える。でも、自分の早枯れをすべて社会のせいにして、被害者意識を持つことは、若くして敗北宣言をするに等しい。敗北宣言はいつでもできる。それを早々としてしまっては、もったいない。
いまの時代、枯れたように冷めて生きる方が、かっこよく見えるのだろうか。一方で、冒険もかっこいい。僕は、冒険は恐いものがなくなった老人の特権だと思い始めている人間だけれども、その特権は、もともとは若い人たちのものだったのだ。