懐疑論 2013.02.24-03.02

哲学の歴史には、真理は存在しないとする懐疑論が周期的に登場する。時代、地域、文化が違えば、そこで人々が信ずる真理は違う。絶対的なものはない。懐疑論はそのような相対主義をとる。相対主義は、往々にして、真理を考えることは無意味であるとして、判断停止の状態に陥る。

いま西洋哲学は懐疑論が優勢のように見える。人間の解放と自己実現によって、近代になって人類は着実に進歩している。西洋はそれを牽引してきた。そう信じてきた。それを「大きな物語」という。その「大きな物語」に、原爆およびヒットラーの大量殺戮によって、疑問符がついた。

ポストモダンは、西洋中心の近代を懐疑的に批判する。オリエンタリズムを登場させ、男性中心主義を見直してフェミニズムを生む。それは、いまから考えるとみな当然のことのように見える。当然のことが当然でなかった。むしろそのことが不思議に思える。

不安の時代には、必ず懐疑論が登場する。それは、懐疑論が不安な時代に人々を惹きつけるからだ。懐疑しているというスタイルそのものが、恰好いいからだ。人々はそれに酔いしれる。後世からデカダンスと呼ばれる退廃の時代となる。

偉大な哲学者は、社会が懐疑論に陥って身動きがとれなくなったときに救世主として登場する。ソクラテス、デカルト、カント、いずれもその前の時代は、懐疑論が蔓延していた。いま哲学の世界において懐疑論が主流であるということは、新たな偉大な哲学者登場の前ぶれなのだろうか。

哲学に限らず、人は真面目に考えだすと、なぜか最後は懐疑論となる。何も確かなものはないという結論になる。それはもともと絶対確実な真理があると信じているからだ。それが少しでも崩れたときに何もないという懐疑論となる。本当はその中間に真実があるかもしれないのに。

懐疑論は、中毒のようなものかもしれない。そこからなかなか抜け出せない。一種の快感があるからだ。それをいかにして乗り越えるか。そこには、弱さをふまえた上で、未来へ向けた強い意志が改めて要求される。それを今という時代は残念ながら見いだせていない。