電車の中で、女性雑誌の広告の見出しが目に入る。「・・・で、美しい女になる」「・・・で、可愛い女になる」。マスコミはこれでもかこれでもかと、はやし立てる。「・・・で、きれいな女になる」もある。美しいと可愛い、そしてきれい。それぞれどこが違うのだろう。
「美しい」は、美的に整っていて端正だというイメージがある。もしかしたら顔にも黄金分割なるものがあって、それに則っている顔なのかもしれない。でもあまりに美しいと近寄り難い。美しい人形は、飾っておいて、離れた所から鑑賞した方がいい。
「可愛い」は、思わず抱きしめたくなる。可愛いが、もともとは赤ちゃんに対する形容詞だからだ。赤ちゃんは、自分一人では生きられないから、周りから愛されるように、思い切り可愛くふるまう。いま、この可愛いがもてはやされている。それは社会の幼児化を意味しているのだろうか。
「きれい」には、清潔という意味がある。美しさだけではなく、清らかさもなければ、きれいと言わない。心もきれいだともっといい。なお、きれいを漢字で「綺麗」と書くと、少し雰囲気が違う。そこには麗しさがある。華やかさがある。花柳界では芸者を綺麗所という。
「色っぽい」も女性の形容詞として使われる。動物的にはメスがオスの色っぽさに魅かれるが、ヒトの場合は逆になる。色っぽさは、もともと遺伝子を子孫に残すために自然なことなのだ。ただし、色っぽさは異性に対してはアピールになるけれども、同性からは冷たく見られる。
「すてき」という言い方もある。漢字では素的、素適とも書くが、最近では素敵と記すことが多い。なぜ敵なのだろう。素晴らしすぎて敵わないということなのだろうか。確かに、素敵という形容詞には、一種のあこがれがある。願望がある。
美しい、可愛い、きれい、色っぽい、すてき・・・。女性の魅力を表現する言葉は、他にも沢山ある。沢山あっていい。それだけ選択肢があるということだ。一つの基準だけに縛られる必要はない。相手によって違ってもいい。それだけ多様な自分の魅力があっていい。