子育て 2013.03.31-04.06

僕はなぜかいま、日本子ども学会という学会の理事をしている。忙しさにかまけて子育てにはまったく参加してこなかった僕だけれども、その反省も含めて、いま子育てに関心がある。たとえば少子化。それはもしかしたら、現代人の生き方そのものに問題があるのではと思うからだ。

ヒトは直立歩行を特徴としている。立って歩くため、女性(雌)は股間の産道を広くできない。一方で、ヒトは頭が大きいから、未熟のうちに早目に子を産む。結果として、子育ての負担は他の動物よりもはるかに大きい。それを前提として、ヒトの子育てがある。

ヒトは早産であるから、赤子への授乳の期間は長くていい。それなのにヒトの離乳は早い。チンパンジーの離乳は5~6年で、その間は次の子を産まない。それに対してヒトは1年で離乳して、次の子を産む。ヒトには年子がある。ヒトはなぜ離乳を早くできたのか。そこにヒトの子育ての本質がある。

ほとんどの動物は生殖機能がなくなったら死ぬ。一方でヒトの老人は長く生きる。女性も早目に閉経してその後が長い。それは高齢の女性が、自ら子を産むよりも若い母親を助けるほうが得だとの戦略をとったからだ。助けられることによって、若い母親は離乳を早くして次の子を産めるようになった。

ヒトは共同で子育てをする動物である。ところが、戦後の日本はそれをやめてしまった。核家族が普通になった。若い母親の子育てを助ける役割を担う祖母は同居していない。父親も、産業界が24時間戦うことを要求して、家庭での子育てに参加していない。子育ては母親一人にまかされた。

母親が忙しいときは、子育ては父親が助ける。父親も忙しいときは祖母や祖父が助ける。それが難しいときは、隣近所でそれを助ける。人は助け合うことを前提として、子育てしてきた。これが崩れたら子育てができない。結果は当然のことながら少子化となる。

互いに助け合っての子育てをやめてしまった現代人は、その代替を行政に求めるようになった。いま保育所の整備が叫ばれている。しかしこれは、税金という金銭による一種の外注化である。外注化も、現代における助け合いの形かもしれないけれども、本当にそれだけでいいのか、考え込んでしまう。