地獄 2013.06.16-06.22

平安から鎌倉へかけての末法の時代に地獄絵が流行したことがあった。なぜ、いま地獄絵を描かなくなったのだろう。現世が天国だから、それで十分だと満足しているのだろうか。それとも死後のことを想像することが恐ろしいから、目を瞑っているだけなのだろうか。

死後はすべて無で天国や地獄はないと、頭ではわかっていても、それを証明することは難しい。証明できないことはとりあえずあると安全側に仮定して、天国に行けるように準備だけはしておいた方がいい。死んでから地獄へ行って、生前の準備不足を後悔しても遅いからだ。

かつてこのような唄があった。「天国良いとこ一度はおいで。酒は美味いし、ねえちゃんは綺麗だ」。それに対して、地獄は夢想するだけでも恐ろしい。酒が美味くて、ねえちゃんが綺麗でも行きたくない。地獄の歓楽街の最終コースが、釜茹で温泉ではたまらない。

天国は金で買える。地獄の沙汰も金次第。そう信じて生きている人も多い。もしかしたら近代という時代は、そうだったのかもしれない。でも、天国を夢見て、例えば為替の変動に一喜一憂する。そして、金銭亡者になる。投機に失敗して自殺する。それは地獄と変わらない。

そういえば受験地獄という地獄もあった。これは、終わりのない地獄ではない。気の持ちようで変わる。嫌々ながら強制されるから地獄になる。自ら進んで、受験を成長の機会ととらえれば、それは未来への幸福の門となる。地獄も天国への道になる。

現代人は、死後の天国に憧れない。死後の地獄を怖れない。それはいまがいい時代だからだろう。でも一方で、死と生に対する感性が鈍くなっているのではないか。それが気になる。死を怖れるということは、言い換えると、いま生きていることを大切にするということだからだ。

この世にも地獄はある。想像を絶する地獄がある。いつの時代にもある。それぞれ大変な悲しみであったけれども、人はその地獄に負けなかった。一人ではできなくとも、助け合うことによって乗り越えてきた。人には、もともと地獄をも天国に変える力がある。僕はその力を信じたい。