孤人 2013.06.23-06.29

個人に対して「孤人」という用語がある。もちろん僕の造語ではない。マスコミ用語とも言われるけれども詳細は知らない。でも、僕はこれが気になる。いまは個人社会でなく孤人社会になっているように思えるからだ。個人と孤人は本質的に違うからだ。

かつて人類がアフリカの熱帯雨林からサバンナに出たときに、襲ってくる猛獣に対抗するために、集団で戦うこと、共同で助け合うことを武器とした。そこでは、孤人になることは、死を意味した。ヒトは独りになることを怖れるようになった。その遺伝子は現代人にも引き継がれている。

いまや金銭さえあれば、何でも手に入る時代となった。独りでも、孤人でも生きていける時代となった。コンビニへ行けば生活必需品は何でも買える。毎日の生活に困らない。互いに助け合う必要はなくなった。助け合うことは、税金という形の金銭で、行政に外注するようになった。

近代は個人主義の時代と呼ばれる。個人主義は、個人の自立を前提として、むしろ社会と積極的にかかわる。それは民主主義を生んだ。孤人主義は、独りでいることを望み、社会とかかわることを嫌う。両者は明らかに違う。それがいま混同されている。

人が共同で生活するときは、必ず人間関係の葛藤がある。現代人はそれが煩わしくなった。共同生活が拘束だと思うようになった。独りでいるほうが快適になった。それを保護する法律もできた。個人情報保護法は、個人ではなく、人が孤人でいることを保護して奨励しているようにも見える。

いまつながりを求めながらも、独りでいることを余儀なくさせている孤人が増えている。たとえば、独り暮らしの老人、それは本人が望んだことではない。孤独死のテレビ報道が話題になったこともあった。決して他人事ではない。将来の自分かもしれない。

いま若い人たちは、個人でいることを望みながらも、一方で携帯を手放せない。携帯を持っていないと、文字通り「弧人」になってしまうからだ。つながりが失われてしまうからだ。現代人は、個人と弧人の間を揺れ動いているように見える。個人は心地いいけれども、孤人は寂しい。