人はどのようにして発想するのだろうか。すべて論理だけで発想するわけではない。僕は、直感とともにひらめきを大切にしている。どうすればひらめきがあるか。その説明も難しい。わかる人にはわかって、わからない人にはわからない。そういうものだからだ。
ひらめきと直感は違う。直感は、理由はわからないけれど、それが面白いと思うことである。それによって、新たにモヤモヤが生まれる。それは人に説明できない。一方のひらめきは、それによってモヤモヤが晴れる。「なるほどそうだったのか」と、人に説明できるようになる。
ひらめきと直感は、いずれもアンテナを張っているときにおこる。でも張り方が違う。直感は、全方位の指向性のないアンテナにひっかかる。それに対してひらめきは、ある特別な問題意識があるときに、それにアンテナの指向性をあわせているときにひっかかる。
ひらめきは、モヤモヤとした問題意識が前提となる。アルキメデスは、風呂に入っているときに浮力の原理をひらめいた。おそらくアルキメデスは、食事をしているときも、就寝しているときも、四六時中モヤモヤとしていたに違いない。ひらめきは、そのようなときに突如としておこる。
ひらめきは、心に余裕がないとおこらない。アルキメデスは、風呂に入ってのんびりすることによってひらめいた。いま研究者は、競争に勝つために、すぐの成果を出すために必死になっている。それではひらめきはおこらない。研究者も、ときには温泉に行って、のんびりしよう。
ひらめきは、イノベーションである。論理だけでは行き詰まったときに、そこに飛躍をもたらす。新たな論理の世界がそこから広がる。それが体系化されると一つの分野をつくる。しかしそれには寿命があり、必ず行き詰まる。そのときにまたひらめきが必要となる。
ひらめきは、いかにすれば可能になるか。みなそれを知りたいから、ハウツー本がベストセラーになる。でもハウツー本からは、決してひらめきは生まれない。何度も繰り返すけれども、それは機械的に生まれるものではないからだ。機械的に生まれるものはひらめきとは言わない。