死の悲しみ 2013.08.11-08.17

先の大戦では三百万人以上の方が亡くなったと言われる。震災でも多くの方が犠牲となった。ご冥福を祈る。でも、申し訳ないと思いながら、実感があまりない。一方で、その中に一人でも身近な人がいると、それは深い悲しみになる。なぜたった一人の死がより悲しいのだろうか?

昔、大学のある研究室で、脳の活動を調べるために実験動物としてハツカネズミを飼っていた。その飼育を研究室の新人に任されたが、彼は大きな間違いをしてしまった。ハツカネズミに名前をつけてしまったのだ。それによって彼はハツカネズミが死ぬことが悲しくなった。実験できなくなった。

死とは、結局関係なのだ。名前を知っている人の死は悲しい。名前をつけることによって、その人が他者から区別された特別の人になる。掛け替えのない存在になる。掛け替えのない人の死は、文字通り掛け替えができないから悲しい。

身内の死は悲しい。先に逝った子の死は何よりも辛い。悲しみは癒されることがない。その悲しみの中で、あえて声をかけるとすれば、亡くなった相手の気持ちを想うことか。残された人が、毎日を悲しんで過ごすのではなくて、むしろこれからを前向きに生きる。それを望んでいるのではないかと。

もしかしたら、自分にとって最も掛け替えのない存在は、自分自身かもしれない。自分自身が無くなってしまったら、それこそすべてが終わる。死はすべての希望を無にする。死はすべての関係を絶つ。親しい人との関係も絶たれる。だから死が怖い。

ジャンケレヴィッチというフランスの哲学者は、死を三つに分類した。一人称の死、二人称の死、そして三人称の死である。一人称の死、つまり自分の死は怖れの対象となる。二人称の死、家族や友人知人は悲しみの対象となる。それに対して三人称の死は、赤の他人の実感がわかない死となる。

人という動物は、死があることを知ってしまった。知ってしまったら、死と向き合わなければならない。死は悲しいし、怖い。でもこの歳になって思う。死があるからこそ、人は生きていることに喜びを感ずるのではないかと。死があることに、むしろ感謝すべきではないかと。